木育クラフトイベントの意味

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木育クラフトイベントの意味〜目的と手段

前年度、とある木育イベントで、手作り体験を実施した。私達が、通称「もこもこ」と呼んでいるもの。可愛い動物の木型に毛糸を巻いて作る、小さな子供から普段作り物をしない、自称「ぶきっちょさん」でも楽しめるアイテムだ。私の仕事は、好きな動物をえらんでもらう事、毛糸の色を選んでもらう事と、簡単な作り方を説明するだけ。毛糸を針に通す御用を承りながら、テーブルをあっちこっちと動き回っている間に時間は過ぎ、最後には自分の作品を満足そうに持ち帰る人達を見送り、ほっと胸をなで下した。
その中で品の良い初老の御婦人が、丁寧にお礼を言っていかれた。その時の言葉、「わたし、こういうタダでものを作らせてくれるイベントって好きなのよね」に、私は少なからぬショックを受けた。まるで面と向かって叱責されたように、顔が赤らむのがわかる。作り笑いで何とかその場を取り繕ったが、私は完全にうろたえていた。女性の言葉は私に何をもたらしたのだろう。

 

振り返ってみて、あの言葉を私に投げかけた女性に、親切以外の感情が微塵もなかった事は理解できる。好意で声をかけてくれ、素直に感想を述べたにすぎない。
しかし、何かが間違っている。
木育イベントにおいて手作り体験は、ただの手段に過ぎない。私がそこで「講師」という役目を頂いて、伝えなければならなかったのは「木育」というものの中身だ。当時の私は木育とは何か、という事についてあまり深く考えてはいなかったように思う。見よう見まねで作り物を教える。体験者が木に触れる事だけで目的が達成されるのだと思い込んでいた。確かにまれにそういう場合もあるだろう。しかしそれは検討の末に出された答えであるべき。本来の木育イベントは、伝える者が自分なりの木育とは何か? という問いに明確な答えを持ち、そしてそれを核としたテーマを、すり合わせた結果、共通認識としてスタッフ全体が持つものでなければならない。それが私の中からすっぽりと抜けてしまっている以上、伝わるものなどありはしない。その時の私はただの手芸を教えるおばさんで、悪いのはその女性ではなく、当然すべき事を怠っていた私の方だ。猛反省が待っていた。
翌年に同じイベントで、やはり手作り体験を実施した時、まず何をつくるか、ではなく何を伝えたいかを決める事にした。そしてそれに沿って、全体を組み立てていった。作り物に使われる材に付いての知識や伝統工芸品としての歴史、それから実際にその材を採取した過程を、情景を交えて話した。
次に製作の合間に参加者一人ひとりに、自らの木育体験について語ってもらった。格別の事ではなく、子供の頃の事や、今朝、食卓でふれた木の道具の事など、普段使いの食器のように素朴で何気ない事ばかり。目新しい話しでなくてもかまわない。語ってもらう事が大切なのだから。人前で話す事によって、想いはまるで木のように語り手にかえってくる。その「響き」が「木育」の大切にする、日常の「気づき」をもたらしてくれると考えた。

 


もちろん事前にスタッフとの打ち合わせも行った。しかしこの点については、十分な内容だったかが、事後の検討課題となった。私自身のコミュニケーション能力が不十分だった為に、やや一方的な提案になってしまった。次回はもっと上手くやりたいと思っている。三人いれば文殊の知恵、ということもある。一人で出来る事は限られているのだから。それ以外に予想外の効果が生まれるのを見る事もできた。それまで個々で作り物に没頭していた人達が、思い出を共有する事によって、和やかなムードになっていった事。「そうそう、あったね」や、「私の子供の頃は……」など、思いがけず話が盛り上がり、後の作業中も会話が生まれた。偶然隣り合った他人同士の中に、温かい心が通じ合うのを見るのは、うれしかった。
私は「手芸のおばさん」を卒業する事に決めた。
イベント毎に目的を明確にする事、そのための手段として、しっかりとしたプランを立てる事、予想される効果に対しての評価軸を決め、実施後に評価して、問題点をあぶりだす事を自分に課した。それらが全て揃ってこそ、木育のイベントが実施されたと言えるのだと思うからだ。

 

木育の手作りイベントは、木で手作りする時間を持つことによって、木と親しい関係を結ぶ効果がある、という事は間違いではない。しかし、ただその事のみに頼っていたのでは、それはごく浅い、その時だけの効果にとどまってしまう恐れがある。より深く、より持続的な木育の学びのためには、実施する側に深い理解と明確な意図が必要だと思う。木や森について多くを伝える事や、参加者の心に深く沈んでいる記憶を甦らせる事、五感で木や森を感じるきっかけ作り、そしてそれらの学びが、胸踊る冒険心や、しみじみとした喜びをもたらす、そういった仕立てがなければ不十分なもので終わってしまうだろう。また、その中から生まれて来る、人と人とのつながりも、木育には大切なものだ。 互いに学ぶことはたくさんある。その用意は出来ているだろうか。大丈夫。東洋の古事に、「弟子の準備ができた時、師は来る」という言葉がある。木育は、新しい段階を迎える時が来ている、と私は思う。より深く、より強いメッセージを、耳を傾ける用意が出来ている人達に伝えるために。

 

                      木育マイスター 齋藤 香里